江戸時代の大坂は、町人の自治で治めていました。なぜ大坂では町人がこれほどまでにパワーがあったのでしょうか?
今回は船場の人々をテーマに、江戸時代の大坂町人の暮らしや上方芸能をご紹介します。
江戸時代の大坂 −経済−
株仲間政策
田沼意次が老中を務める江戸時代後期には、株仲間政策が非常に重要視されました。株仲間とは幕府・諸藩の許可を得た独占的な商工業者の同業者組合のこと。租税による収入と地方商人の統制のために、株仲間を次々と公認していきます。大坂では油・木綿・生魚などの生活必需品の株仲間が発達し、政権末期には、大坂だけで約130もの株仲間が公認されていました。
株仲間の組織
株仲間には「寄合」という株仲間の最高意思決定機関がありました。今でいう株主総会にあたるもので「行司」とよばれるまとめ役が選ばれ、奉行所などや、株仲間の管理などを行い、今の株式会社社長のような役割を果たしていたと言えます。 株仲間は新しく加入するものの審査を、全体に関わる問題として厳しくしたり、さらに既存の仲間であっても跡取りを厳しく審査し、道楽者や怠け者は排除されたと言います。また、多く税金を納めた大商人は、本来武士にしか許されない名字帯刀を許されることもありました。
大坂町民の気風を
生んだ町民自治
株仲間には「寄合」という株仲間の最高意思決定機関がありました。今でいう株主総会にあたるもので「行司」とよばれるまとめ役が選ばれ、奉行所などや、株仲間の管理などを行い、今の株式会社社長のような役割を果たしていたと言えます。 株仲間は新しく加入するものの審査を、全体に関わる問題として厳しくしたり、さらに既存の仲間であっても跡取りを厳しく審査し、道楽者や怠け者は排除されたと言います。また、多く税金を納めた大商人は、本来武士にしか許されない名字帯刀を許されることもありました。
江戸時代の大坂 −言葉−
「だんさん」「ごりょんさん」は船場言葉!
船場言葉は大阪船場の商家で用いられた言葉。昭和中期まで、折り目正しい大阪弁の代表格として意識されていました。商いという職業柄、丁寧かつ上品な言葉遣いが求められたため、京ことばの表現を多く取り入れ、独自のまろやかな語感・表現が発達しました。
- だんさん・だなはん(主人)
- ごりょんさん(主人の妻)
- おやだんさん(主人の父)
- おえさん・おえはん(主人の母)
- ぼんさん・ぼんぼん(主人の息子)
- いとさん・いとはん(主人の娘)
- 奉公人:ばんとはん(番頭)
- でっちさん(丁稚)
- おみせのん(店員)
江戸時代の商家の格言「おいでやす、ごめんやすには蔵が建つ」
店にお客様が入ってきたら、お客様が「ごめんやす」と口にするより先に、店の者が「おいでやす」と声をかけなさい。「おいでやす→ごめんやす」という順番で声が聞こえている、接客の基本がしっかりできているお店は、必ず繁盛して蔵が建つ、という意味。
江戸時代の大坂 −文化・文学−
近世大坂の文化と学問
江戸時代後期には、自由で軽妙な作風の談林俳諧が流行し、大坂だけではなく、京都・江戸にまで広まりました。『好色一代男』の著者・井原西鶴も、大坂町人のことして生まれ俳諧に親しみました。西鶴は生国魂神社で見物数千人を集め、一日一夜で4,000句を詠んだ記録が残されています。
人形浄瑠璃(文楽)と近松門左衛門
大坂で人形浄瑠璃が盛んになったのは江戸時代中期ごろ。竹本義太夫によって大成されました。1703年、近松と竹本が協力した世話浄瑠璃『曽根崎心中』が大当たりをとり、その後竹本座と近松は現在でも知られる『冥途の飛脚』や『心中天網島』などの名作を残しました。
町人の学問所・
懐徳堂
江戸時代中期に大坂の商人たちが設立した学問所。1724年、大坂の豪商が出資し、儒学者・三宅石庵を学主に迎えて船場(現在の大阪市中央区今橋3丁目)に懐徳堂を設立しました。1726年に江戸幕府公認となりましたが、運営のための財政は町人によって賄われ、懐徳堂が「町人の学校」とよばれる所以でした。
大坂の洋学、適塾
鎖国下でも、知識人たちはオランダをはじめとする諸外国の学問「洋学」を学び続け、それが維新以降の近代化の素地となりました。1838年、緒方洪庵は大坂瓦町で医師をを開業すると同時に、蘭学塾適々斎塾を開きました。また、日本最初の除痘所を開き、当時の流行病コレラ対策にも尽力しました。適塾は全国から洋学を志す三千余人が学び、大村益次郎・橋本左内・福沢諭吉など幕末から明治にかけて活躍する人物を数多く輩出しました。