大阪は「水の都」として知られ、「浪華八百八橋(なにわはぴゃくやばし)」といわれるほど、橋と水路が多い街。淀川、大和川は京や奈良に内陸の水路として通じ、大坂中を縦横無尽に伸びた堀川(河川や堀をつなげた川)には橋が架けられ、交通・物資の輸送の要となり、やがて日本一の経済都市-「天下の台所」として栄える大きな要因となりました。
大坂の経済を動かした大坂三大市場、いわゆる「堂島の米市場」「天満の青物市場」「雑喉場の魚市場」の歴史と、現在の五感・吉野・神宗とのつながりをご紹介します。
米市場 −堂島−
米市場とは、江戸時代、蔵屋敷から払い出される諸藩の米が、米商人たちの間で売買されるところ。堂島の米市は、元禄元年(1688年)に開発された堂島新地の振興策の一つとして始まったと言われている。
大坂の豪商「淀屋」
最初に蔵米の取引を行ったのは、大坂で繁栄を極めた豪商「淀屋」の2代目「言當」と言われています。淀屋は全国の米相場の基準となる米市を設立し、元禄10年(1697年)、堂島に移転したことから「堂島米市」が発足しました。
彫刻家の横江嘉純氏に製作され、堂島米市場跡建設により、寄贈された。
(大坂全日空ホテル南側、堂島河畔)
世界的最先端!先物取引のビジネスモデル「堂島米市」
蔵屋敷では、米を競争によって値をつける入札を行って、落札者に「米切手」を発行し、この米切手が堂島の米市で売買されるようになりました。 堂島米市が始まった当初は、現物の米を取引する「正米(しょうまい)取引」でしたが、米切手が大坂の米商人の間でさかんになり、米相場の変動を利用して、その差益を得る「帳合米取引(一種の先物取引)も行われるようになりました。これが世界の先物取引の起源とされています。
享保15年(1730年)には堂島米市場は幕府から米取引の公的機関として、帳合米取引とともに公許を得ました。 堂島における米相場は、全国の米価や諸物価に大きな影響を与え、「享保の改革」を進めていた江戸幕府8代将軍・吉宗も、米相場の情報に一喜一憂したと伝えられています。
米切手(久留米藩発行)
高値で落札した米仲買が、藩に米の代銀を支払い、代わりに支払証明書を受け取る。それを蔵屋敷で米を管理する蔵元に提示して、買った分だけの「米切手」の交付を受ける。後日この米切手を蔵屋敷に持参すると、蔵屋敷から米の積み出しが行われた。
水の都・大坂 水運によって発展した堂島の蔵屋敷
江戸時代には、水運により輸送された日本中の物資の集積地となった大坂。その物資の中心が米です。特産物を保管し、売りさばくために、川べりにには諸藩の出張所ともいえる「蔵屋敷」が建てられ、全国各地から集められる年貢米を蓄えるための「米蔵」が造られました。ここで換金した現金が国元に送金され、それが藩の財源となります。 大阪湾に面した安治川の河口付近には、いつも北前船など米や諸物資を満載した大船が集まり、大変なにぎわいでした。
廻米の積み降ろし
諸藩の蔵屋敷の多くは、中之島や土佐堀川、江戸堀川付近に多く建てられたので、毎年領国から積み込まれた米や特産物を船から下ろす風景が、こうした船着き場で見られた。
米の蔵入れ
諸国から大坂の蔵屋敷の御米蔵に、積み降ろされた米を入れる前に「こも(藁で編んだ敷物)」を敷いて乾燥させた米俵で「はえ」を組む。(絵図右側)その後、仲仕に「入指米(蔵入れ手数料)」を渡して、蔵入れする。
神宗所蔵「久留米藩大坂中之島蔵屋敷絵図」より
旗振りリレーで相場を知らせる!「堂島の旗振り」
堂島の米市場には「旗振り通信」を行うための櫓(やぐら)が設けられていました。これは米価に対する関心が全国的に強かったゆえに、堂島米市でたった米相場は、できるだけ早く江戸をはじめ各地に伝達される必要がありました。多くの場合、特別な書簡に記され、専門の「米飛脚」が伝達していましたが、明治初期から、それに代わって「旗振り通信」が行われるようになりました。
この櫓(やぐら)から畳半畳ほどの白や黒の旗を振って、米相場を知らせる合図としたのです。堂島にある建物の屋上からまず第一の中継ポイントに伝達、それを見た伝達者が同じ方法で第二の中継ポイントに伝達、というリレーをくり返しながら遠方まで通信しました。 伝達速度は、堂島から和歌山が3分、京都まで4分、大津まで5分、神戸まで7分、桑名まで10分、広島まで40分だったと言います。
明治26年頃には大阪でも電話が出現しましたが、その後もこの旗ふり通信の方が便利で安価だという理由で、すぐには無くならなかったそうです。
五代友厚と米市場
NHK「あさが来た」でもおなじみ五代友厚(1836年~1885年)は明治に入り、一度は衰退した堂島の米会所を復興させ、さらに保証有限会社・堂島米照会所を中心となって設立しました。 五代は、さらに株式取引条例の成立を受けて、自ら大阪証券取引所の前身である大阪株式取引所の発足人となり、その設立にも尽力しました。
薩摩出身の五代友厚は、明治時代の大坂の経済振興においてさらなる発展をもたらすべく、数々の事業を興し、財界や文化・教育界に渡ってさまざまな制度の改革や組織の設立・再編を積極的に図ったとされ、近代商都大阪の繁栄の恩人と言われています。
お米も時代が変わればこんなかたちに!
全国からあらゆる食材が集まる「天下の台所」大坂は、独特の食文化が広まり、今日に至っています。五感がある北浜は米にゆかりのある地。日本人の主食であるお米を、洋菓子に取り入れた大阪発のブランドとして、五感は自然の恵みを活かし、「日本人の心に響く洋菓子」をつくり続けます。
青物市場 −天満−
石山本願寺の寺内町(現・大阪城)で自然発生。豊臣秀吉の時代、大坂城を築くにあたり京橋南詰上手に移動してきた。
青物市場の変遷
片原町から天満に移転した時、天満地区は人家少ない畑地でした。市場の人々は自らの繁栄の策を進めると共に、幕府は特別の庇護を与えたので、天満青物市は蔬菜(野菜)供給の唯一の市場として目覚ましく発展しました。
1615年(大阪夏の陣) | 青物市は、一度は消滅するも京橋にある大豪商・淀屋常安屋敷内で青物市場が復活。 |
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1951年(慶安4年) | 幕府が街道整備で市場地を公収、京橋片原町に移動。 |
1653年(承応2年) | 片原町は市場には不適当のため、天満の地に移転。 |
1931年(昭和6年) | 中央卸売場に吸収。 |
菜(な)の庭。野菜作りに適した河内平野
現在の大阪湾は魚(な)の庭と呼ばれ、肥沃な河内平野も菜(な)の庭と呼ばれていました。活気づく大坂の町の増え続ける人口を賄うために大量の食材が必要とされ、それを供給していたのが、市街地地域の難波村・木津村・勝間村(こつまむら)・今宮村・西高津・中在家・今在家・吉右衛門肝煎地の「畑場八カ村」であり、名産野菜が作られました。
現在100年以上前から大阪府内で栽培されて、大阪府によって認証されているブランド野菜を「なにわの伝統野菜」といいます。
旬の野菜が長生きの秘訣?初物の売出日を幕府が決定
「初物を食べると寿命が75日延びる」と言われています。その年初めて収穫されたものには生気があふれ、それをたべることによって新たな活力を得て長生きできると考えられていました。
江戸時代中期には人は競って初物を求めるようになったことから、幕府は初売りの売出日を取り決めました。
新鮮な生野菜と、長持ちする乾物
朝廷や寺社への精進物として生野菜を大量に遠方へ運べなかったため、古くは万葉の時代から野菜や山菜を乾物加工していました。このため、青物市場では乾物も取り扱っていました。乾物品は当初、青物商が青物と並べて売っていたと思われますが、次第に独立商品となり、乾物専業の店ができていきました。
鮮度第一の青物と異なり、乾物は長持ちし在庫を抱える必要があるため、商いのやり方の違いから専業化したと考えられます。ちなみに、吉野では、現在も天満にある乾物やさんで、干ぴょう・海苔・椎茸・ごま・高野豆腐を仕入れています。
魚市場 −雑喉場−
大坂城築城前に、京橋北詰で鮒市場が自然発生。大坂夏の陣後、海魚を扱う魚市が天満魚屋町にできる。
その後、移転・開拓を重ね、1682年、鷺島の出張所が「雑喉場」と呼ばれ鮮魚の独占市場となる。
1931年に、中央卸売市場に吸収。
生魚は鮮度が命!魚の旨みが最高潮に達するタイミングで食卓に
当時の生魚の流通は、産地の漁港から主に白身魚を船の生簀(生間)で泳がせながら雑喉場に向かい、安治川の河口少しの沖合に来ると川の水が入らないように生簀の通水口を塞いで、魚を〆ていきました。
このようにして深夜から明け方にかけて雑喉場問屋に運ばれた魚は、朝方セリにかけられて、その日の夕食に出されます。生魚が〆られて約13時間後。 魚肉が十分に熟成して、魚の持つ旨味成分イノシン酸が最高潮に達し、適度な歯ごたえも残る絶妙なタイミングで大坂人は白身魚を食していました。その白身魚の味わいこそ、大阪魚文化の起点となっています。
出船千艘(そう)、入船千艘(そう)
近世大坂は全国物資の集散地であり、特権商人の経済活動の中心でした。「出船千艘(そう)、入船千艘(そう)」と称され、大坂の富の70%は海上の船中にあり海路を軸とした流通網で物資が大坂に運び込まれました。
海運の発展には大商人・河村瑞賢(かわむら ずいけん)が大きく貢献しています。1671年・1672年、河村瑞賢は、諸藩による開運整備の動きの高まる中、西廻り航路・東廻り航路を改良・整備しました。 西廻り航路は松前~大坂を結ぶ航路で北前船とも呼ばれ、これにより昆布が大坂に大量に運ばれ昆布の加工品が大阪の名物になっていきました。
河村瑞賢は航路の制定だけではなく、当時日本初の治水事業で大坂の治水・新田開発を行った功績もあります。
北前船
貨物船「弁才船」と呼ばれる船が北前船として使われた。名称については「北廻り船」が訛ったから、北前とは日本海の意味で日本海を走る船だからなど、諸説ある。
西廻り航路
北海道の港から、日本海・瀬戸内海を通って大坂、江戸へ向かう航路。東廻りに比べ、荷物を安く運べるなどの理由から、18世紀初めからさかんに利用されるようになった。
東廻り航路
太平洋側を北へ向かう黒潮の流れに逆らって航海しなければならない。当時の船では大変だったため、次第に廃れていった。
近世、浜で水揚げされた魚を仕入れ、髷を結った男性が魚をさばき、料理を作っている様子がうかがえる。
大阪人の「始末」の精神。
年に一度の大盤振る舞いで旬の「桜鯛」を満喫
1580年代、豊臣秀吉が大坂城を築き、大坂の町づくりを始めた時期から、大坂人たちは5月はじめの八十八夜を中心に1ヶ月ほどの期間、天然マダイを『桜鯛』と呼び、自然の恩恵、旬の贈物として季節の味覚を満喫していました。
桜鯛は大阪湾をはじめ、内海の浅瀬に産卵のために折り重なって入り込み、その数の多さからあたかも小島のようであるとして、「魚島」とはやされました。 春は豊漁となり、旬で旨みがある上に値が安い。その上捨てる部分が少ない。生はもちろん煮ても焼いても万能であるところが「始末」を旨とする大坂人の好みにあっており、この時期を「魚島季節」(うおじまどき)と呼んで、船場人は桜鯛を贈り合いました。
青い笹の葉か松葉を敷いた漆の箱から立派な姿の桜鯛の尾がはみ出して覗かせているのも美しい眺めでした。 日頃お世話になったところに鯛を届けたり、仲間同士が集まって食事をしたり、年に一度の大振舞として商家では番頭・女中・丁稚にいたるまで、鯛を満喫していたと言います。
雑喉場にあったころの神宗は…
神宗の8代目店主によると、神宗は実は天明元年(1781年)以前より、商いをしていたようです。その頃の場所は、現在の中央区伏見町(本靱町)。そして天明元年には幕府の命令で、海産物問屋は現在の西区靱本町(新靱町)に移転。それから江戸時代末期から雑喉場に移りました。当時、塩昆布は家庭料理の一つで、専門のお店はありませんでした。今でこそ神宗の看板商品の塩昆布ですが、かまぼこや天ぷらなどいろいろな商品を販売しておりました。